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少子化に拍車をかける白い恋人たち

東京にしては珍しくつもるほどの雪がふった。
我が家の近くには川を見下ろす台地の上の古墳群をそのまま公園にした広大な多摩川台公園がある。

この公園は日本野鳥の会のバードウォッチングが行われるほどの、緑豊かな美しい公園である。

雪に覆われた今日は、さらに美しいの一語につきる。

ダンナと二人で公園を歩きながら、デジカメで写真をとる。
遠目には「白い恋人たち」であるが、
近寄ってその会話を聞くと、およそ色気がない。

わたしがすべって雪に手をついた。
ダンナ「何してるの?」
わたし「何って、すべったのよ。このあと見てよ?」というと
ダンナ「ベスト・アングルをねらってかがんだのかと思った」
わたし「雪がなかったらデジカメ壊れていたよ。あー手首ひねった」というと
ダンナ「えっ?デジカメ? 」とデジカメを手にとって、いとおしそうになでる。
わたし「それにしても誰もいないねえ」

そう、こんなに綺麗なのに、公園にはほとんど人がいないのである。
たま~に、いても、だいたいお父さんにつれられた女の子一人という組み合わせで、子供社会はいっこうに見あたらない。

私が小学生の頃は雪が降った日の放課後は、この公園にいちはやく乗り込んで、ともだちと、雪合戦をしたり、雪だるま創ったり、おしくらまんじゅうをしたりした。誰も踏んでいない雪を最初に踏みたいがために、授業が終わると、公園まで走ったものである。

なのに、今日。土曜日の午後だというのに、公園内の広大なグランドは無人である。
いくつかの雪だるまが、かつてはこの広場に誰かがいたことを示唆しているが、今は無人なので、かえって索漠とした雰囲気を演出している。

ここにきて少子化を実感。

これじゃー、大学は経営はなりたたくなり、いずれ大学間の淘汰、使えない先生の淘汰が始まることだろう。

「やーねー、困ったわねー」と思うが、

少子化の元凶となった世代の一員として何も言えないので、とりあえず、雪の上に寝転がって、「殺人現場」とか一発芸をやって景気をつける。


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困った答案ベスト・ファイブ

本日をもって通常の授業が終わり、来週から試験期間に入る。学生も大変だろが、採点する方も大変である。

穴埋め式の問題にすれば採点はラクだが、授業にはでてこないくせに、友達からノートやレジュメをかき集めて、一晩で暗記してくるようなヤツほど、えてして、この手の問題をよくとく。そのため、穴埋め式で全評価をするのは危険。

授業を理解しているか否かが正確に出るのは、やはり記述解答である。
しかし、この記述解答の採点が、疲れるのだ。

以下、困った答案ベスト・5を揚げてみよう。

(1) 授業で話したことを全部並列表記して、解答用紙の裏にまでびっちし書いてくる解答。以下サビ ~これでは、授業内容を理解しているのか否かさっぱりわかんない。~

(2) 何いいたいのかさっぱりわからない悪文。これまた、~サビ~

(3) 論述しろといっているのに、一文しか書いてこない解答。~サビ~

(4) 授業の中であつかった議論には一切ふれず、自分の意見だけをとうとうと述べる解答。 ~サビ~

(5) 怪我をした、病気をした、就活をした、と一代記を書いて単位をこう文章(て、これは解答ですらない)。

理解する→短い文章にわかりやすくまとめることができる 
理解できていない→思考が腸捻転するので文書が長く・晦渋になる、

という真理に基づけば、
(1)(2)はバツつけて終わり、ちゃんちゃん、ということにとなろう。
しかし、「文章力がなくてまとめられない」という可能性も捨てきれないため、理解の片鱗を見落とさない努力が必要となる。

(3)はその短文の内容がたとえ正しくとも、もうなんといったって、×。長々と書くと自分の無知をさらけ出すので、短くして逃げている可能性が非常に高いからである。

(4)は(3)の逆パターンで、無知をさらけださないために饒舌になることによって煙幕をはっている可能性が高いため、これもバツ。

ところが、こういう学生に限って「僕のいってることは正しいのになぜ×なのか」とか言ってくるのである。しかし、そもそも試験の問題とは授業内容の理解をとうているので、アンケートではない。自分の意見を言いたいのなら、授業内容にからめた上で弁証法的にろんじりゃーいいのである。
ただ自分の意見をのべているだけというのは、問題の趣旨も理解すらできていないことの証。バツバツバツ(きれてます)。

最後の(5)は一番困ったパターンで、これに「先生の授業、少ししか出られなかったけど、とてもおもしろかったです」とか追記されると、ついつい手が○を描きそうになるが、それではいかん。

といいつつ、十年くらい昔、文学部での試験で、追いつめられた学生が、記述解答欄に、えんえんと自作落語を書いていて、それがあまりにもおかしかったため思わず通してしまったことを、ここに告白する(時効だよね 今は許さないよ)。


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学バス内にてオノレの不徳を恥じるの巻

それは学バス内での出来事であった。私は同学部のC先生をみつけたので、たまたま目の前にいたご老人(男)に席を譲って、C先生の座席の前にたった。

私とC先生はたのしく世間話を始めた。しばらくすると、横から、

「あ~あ~うるさいねえ。〔アナウンスが〕聞こえないよ。わたしゃ初めてこのバスに乗るのに」

という聞こえよがしな大きな声が。発言の主はと見ると、C先生の横に座っていた別のご老人(女)であった。当然、わたしは凍り付いた。その時、わたしの頭の中は

「私は声が大きいからな。C先生に不愉快な思いをさせてしまった。どうしよう。」とグルグルである。ところがである。C先生

「どちらで降りられるんですか、教えて差し上げますよ。」と聞くではないか。それまでは口をへの字に結んで「わたしゃガンコババアなんだよ」とまわりを威嚇していたその女性は、一瞬とまどった後、すなおに、その先生に行き先をつげ(穴八幡の一陽来復買い。 笑)、最後にはかるく会釈もした。

私の目の前で奇跡が起きたのだ。
一人のガンコばあさんが礼儀をしる普通のばあさんへと錬金術的な進化をとげたのだ。

はじめてのバスで、アナウンスが聞こえなくて、不安なのなら、運転手さんにでも、わたしたちならずともべつの他の人にでも、何駅目ですかと聞けばすむことである。そうせずに、あのような発言をしたのは、彼女が、自分の感じている不快感をわれわれにも共有させようとしたからだ。

わたしはその悪意に凍り付いた。だが、C先生は違った。

彼女の黒い感情をそのままうちかえさず、彼女にまったく違うレベルの暖かいボールを手わたし、状況を激変させたのである。

C先生と比較しての自分のダメさにそれから落ち込んだことは言うまでもない。
でも、よく考えたら、落ち込むことも一種の自己愛の現れ。いい加減立ち上がろう。


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お寺ルネッサンス

録画していたETV特集「お寺ルネッサンス」を見る。

「葬式仏教」からの脱却を目指す様々な寺の試みを『がんばれ仏教』の著者が紹介していた。そこで紹介されていたのは、

・ご住職(元映画のプロデューサー)がお寺の本堂を劇場に改装して若者を集めているお寺。

・ご住職が自身の老親介護をめぐる経験から「家」を象徴する墓ではなく、「個人」で入るお墓をつくっているお寺。

・超宗派で仏教を考える若いお坊さんの集団、「ボーズ・ビーアンビシャス」

・本堂でデイ・サービスを行いつつ人の死について考えているお寺

などであった。

かつて、お寺は地域において、学校・病院・養老院・孤児院・劇場など様々な機能を果たしていた。なので、その公益的な機能が、意欲的な僧侶によって一部なりとも取り戻されていくのはいいことだと思う。

しかし、これらのご住職たちが自分のお寺に集まってきた人たちに対してどのような教えを説いているのか、それをもう少し踏み込んで報道してほしかった(不偏のNHKだから無理か)。

だって、デイサービスや劇場や無宗派のお墓は寺院でなくても、他の組織でもできることである。

一方、オノレの心の中にある醜い欲望や怒りが自分に不幸せをもたらしていること、自らの強すぎる欲望や怒りを消すことによって幸せになれること、それらを説明できるのは仏の教えにしかできない。

彼らが仏の教えによって人々を導き、それによって人々が癒されてはじめて、仏教が再生(ルネサンス)したといえるのではないだろうか。

さらに、身も蓋もないことをいえば、仏の教えを説くことができ、それを体現した人ならば、劇場をやらなくとも、デイサービスをやらなくとも、もっと本質的な意味で人を癒し導くことができ、結果として、仏の教えもひろめられるということである。

このぶろぐの一日の訪問者はユニークアクセスで、だいたい200人から250人である。

一方、わたくしの主宰するホームページ「オカメインコの森」は、何の変哲もない親バカページであるが一日のアクセスは450人から500人である。

なぜわたしのぶろぐには人が来ないのか。

それは、このブログの内容が可愛げも何もないからである。一方、ホームページの主役であるわたしの愛鳥は性格は無欲で明るく、見た目も非常に愛らしく、写真だけでもまわりを喜ばせ、ひきつけ、癒す力をもっているのだ(すごいだろ)。

彼のおかげで知り合えた同世代(いや、みな私より若いですがね)のお友達もすばらしい方ばかり。彼の周りには幸せの輪が広がっているのだ。

このことが暗示していることは、「仏教再生の可能性」「寺にどうやったら人が集まるか」に関する百万代言よりも、一人の魅力ある僧侶の方がはるかに仏教の復活に資するということであろう。

外に向けての取り組みはむろん大事であるが、それに加えて仏教徒らしく、内なる問題を解決することによって、外なる問題もクリアしていくという克己的な姿勢も必要だと思う。

自分も含めて仏教徒のすべてが自戒すべきことである。


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東中野で缶詰にされてますた・・・

今日は日曜日。本当だったら、
おうちで愛鳥と歌ったり踊ったり
暖房機の前でごろごろしたり、
昨日HDDにとった「お寺ルネッサンス」とかを三倍速(笑)でみているはずの日。

なのに、なぜか組合の会合により、東中野の某所に缶詰にされた。
なにをしたかって? ベースアップとか、福利厚生とか、年金とか、総長選とか
なんかそんなことについての勉強会なのだ。

文系としての生活がながくなった今、わたくしは足し算すらおぼつかない。なのに消費者物価指数とか、増税とかベースアップ率とかいわれても、さっばりわかんない。

そして、もはや親も子もない天涯孤独の身なので、介護とか、育児とか、福利厚生とか言われてもピンとこない。

また、私の父は55、母は65で他界しており、その二人の子として生まれた私は
いわば夭折家系のサラブレッド。
年金問題がどーとかとか言われても、年金をもらえる確率は限りなく低いのである。わがイシハマ家にとっては、年金もらえるまで長生きできたらそれだけで丸儲け。それ以上を望むなんて天をも恐れぬ強欲である。

そういうわけで、気の重い会議の席ではあるのだが、学部の枠をこえていろいろな先生方とお知りあいになれるので、これはなかなか楽しい。組合活動と思わず、サロンだと考えればいいのである。

というわけで、某先生と中国の近未来シュミレーション(笑)などを語り合ったりして、なかなか有意義なひと時を過ごしたのであったった。

組合も人材難ですな。


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文学部校門前におけるプチ・バトル

新聞などで報道されているのでご存じの方も多いかと思うが、去年の暮れ、早大の文学部キャンパスでビラをまいた活動家が逮捕されるという事件があった。

今日、授業が終わって校門のところまでくると、その逮捕を不当と訴えるグループが門の前で街宣活動を行っていた。一人は拡声器で演説をし、不当逮捕と書いた横断幕を掲げる人、ビラをくばる人、と五~六人くらいかな。そして拡声器で演説するひげ面の男に、中高年の男が酔っぱらいのようにからんでいる。

謎の光景である。

聴衆はちらほらいるようだが、みると文学部の知り合いの先生がいる。そしてよくよく見ると聴衆の大半は街宣活動を監視する文学部の先生たちだった(笑)。そしてさらによくよくみると、酔っぱらいのオジサンに見えたのは文学部の●×先生だった・・・。

学校側は活動家がわがビラまきのみならず、先生の一人に脅迫的な言辞を弄したことを怒っており、活動家側は、ビラまきという表現の自由を侵害されたことを怒っているらしい。よっぱらいにみえた中高年の先生は大声で自己主張する活動家に、その演説をやめるよう、からんでいる模様。

さらに、知り合いの先生に「ところであなた何でカメラさげてるの?」と聞くと
「何かあった時証拠写真をとるため」とのこと。つまり、そのねちこい先生と演説している活動家の間で何かあった場合の証拠写真ということらしい。

「向こうだってビデオでこっちを撮っているでしょ。あなたも関係者だと思われるよ」

え。ええええ。

もちろん、即座に他人のふりをしてその場を立ち去りましたよ。

私は会議の席でも、このような自己主張のぶつかりあいをみるのは苦手。キレやすい性格のわりには論争も嫌い。自己の利益を主張する双方がきつい言葉をやりとりしつつもなぜかイキイキしてて、どちらかが相手をやりこめて、勝った方が輝いみえたりした時には、もう心底うんざりする。

彼らは論争を楽しんでいるように見える。
そして、何が楽しいのか私にはさっぱりわからん。

対立する見解があっても、論理的に正しい者が静かに場を支配すればいいのであって、そこには論争の余地はない。

対立する両者双方にそれなりの理があるのであれば、ののしり合うよりも、譲り合う方が建設的だから、ここにも論争の余地はない。

一番いかんのは、論争の末に、弁が立つもの、声の大きいもの、権力をもっているもののがおしきって、それが正しいものになることである。

でもよく考えみたら、世の中↑で回っているわけだから、子供もぐれるわな。


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凡夫と聖者の間に横たわるマリアナ海溝

内田樹氏が自らのブログの中で(トラックバックをはりたいが、やり方がわからない)、男の口説き方について述べていた。

「あなたには才能があるわ。他の人には見えなくても、私にはわかるの」

これで大半の男は落ちるのだという。氏は続けて、自分のバカさ加減に適切な自己評価を下している男の場合、これは通じないため、さらなる二次攻撃が必要とされるという。それは

「私、あなたのルックスが好きなの」

これで、どんな男でも「あっという間に崩れ去る」のだという。

氏の論を読んで以下のように思った。
 人は「自分を評価してくれる」ことにめっぽう弱い生き物である。学歴、肩書きなどは客観的なものさしなので人によってはほめるツールに使えないこともあるが、「隠れた才能」「人によって好みの違いのあるルックス」、これはどうとでも解釈できるので、人種、宗教、社会の壁をこえて使用が可能である。

人はエゴを満たしてくれる人がとても好き。これは女性だってそうだろう。

「あなたがいなければ生きていけません」

このように「自分が必要である」と男性から訴えられて、ちらっとでも心の動かない女性がいたとしたら、それはお迎えの近い老婆か、日本語を解さない女性であろう。

人は誰でも自分が、認められたり、ほめられたり、おだてられたり、するのが好き。相手の心をつかもうとすれば、相手の自尊心をくすぐればいいだけである。しかし冷静に考えれば、このようなことを言われて簡単に落ちるような男や女を配偶者にえらんで果たして幸せになれるのかという疑問は残る。

だって自分のことしか考えてないんだよ、相手は。

でだ。昨日なにげに手にとった『チベット通信』(2005冬)にダライラマ猊下のスピーチ(2005年10月23日)が載っていて、そこには、以下のような言葉があった。

チベット国内にいる人は気持ちを率直に話す機会がありませんから、中国の言いなりに、言うとおりにしなくてはなりません。
自分の命を危険にさらしてまで、私を尊敬し、祈る必要はまったくありません。
拷問を受けた場合、私を批判することで拷問が軽くなるなら、そうしなさい。
生きるためにはそれが一番手っ取り早い方法です。その方が私も嬉しいのです。

このスピーチに限らず、ダライラマは、病気をおして、あるいは体制の壁をこえて彼のもとに参じようとする熱狂的な人々に対して、「自分は一介の修行僧である。特別な力はなにもない」と、自分に対する過度の崇拝を戒めている。

さすがは猊下、やはりわれわれ凡夫とは人間としてのランクが違う。

しかし、その飾らない人柄がさらに熱狂的なファンをふやすので、彼の警告はじつはまったく意味がない(笑)。たとえば、このスピーチの行われたちょうど一ヶ月後(日付まで同じ)の11月23日にデプン寺の僧侶五人が、ダライラマを非難する文書へのサインを拒否して逮捕されている。国際社会にも流れたニュースなので記憶されている方も多かろう。

凡夫と聖者の間にはマリアナ海溝よりもふかい深淵がある。われわれ凡夫は、聖なるものに恋いこがれるが、煩悩のある限りこの溝は越えられない。凡夫がこの深淵を越える唯一の手だては、絶対的に聖なるものに殉じることだと言う人もいるが、ダライラマの発言などを見るにつけても、それをされても聖者や仏教の側は迷惑だろうなと思う。


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独断と偏見によるイケてる聖者像

大学の休みも終わりに近づき、私としてはここ一番逃避的思考に走りたいところである。

そこで、「どういうお坊さんだったら、イケているのか。」
この永遠のテーマについて独断と偏見で語ってみたいと思う。

まず、大前提として仏教思想に関するエキスパートでなくてはならない。お坊さんである以上、初期仏教からはじまり、中観、唯識、論理学など仏教の諸学をきわめていて欲しい。むろん、ユーモアのセンスにあふれ話術もたくみであると申し分ない。とつとつとしゃべる誠実さも捨てがたいが。

そして次に重要なのは、仏の教えを口で唱えるだけでなく、現実に人格に反映させてくれ。つまり、エゴを、煩悩を、可能な限り克服していること。これはじゅーよー。

煩悩を克服しているとはすなわち、

無欲で、克己心が強く、温厚で、誠実で、清潔感があって、色にたとえるなら真っ白で、自分に厳しく、他人にやさしく(具体例 → 他人に責任を転嫁したり、自分を偉く見せようとしたり、弱い自分をまもるため他人を攻撃するなんて性格はもってのほか。)信仰深く、猜疑心がなく、謙虚で、できれば独身がいい

事実、私の知る限り、独身の聖職者は仏教、キリスト教を問わず女性信者に圧倒的に人気がある。誰の者にもならない、神の、あるいは仏の教えに身を捧げたという聖性が、女心をくすぐるのである。

こう書いてみると「まあダライラマ猊下のことだわ」というベタな冗談はさておき、仏教の教えのエクスパートという部分をのぞけば、イイ男、イイ女のタイプと重なる部分が多いことに気づく。

世の中にはチョイワルの男や女にホンロウされて喜んでいる変わった人もいるので一概にはいえないが、多くの人々の心をつかみ、安らがせるタイプの人は以上にあげたような性質を備えている。

仏青の若者たちよ、このような僧侶に近づく努力をしてくれ。このような僧侶が増えれば、犯罪はへり、心をやむ若者もへり、景気は上向き、私の仕事ははかどり、わたしの精神衛生も格段に向上することだろう。

あーあ、休みも終わりかあ。


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帝国主義と民族主義のあいだ

 これからの仏青の進むべき道は「帝国主義」と「民族主義」の間にあると思う。

病後のくさった脳みそで説明すると

 帝国主義とは

「オレの言うことは正しい。老若男女・国境・人種を問わずすべての人にとって正しい。だから世界は従うべきだ。オマエたちは遅れているんだ。オレに従え」


みたいなやりかたね(いいかげん)。

 一方民族主義とは、

「俺たちはこれで幸せにやってきたんだ。オレの父ちゃんも、ジイさんもみんなこうしてきたんだ。余計な口をだすな。俺たちのやり方に口を出すやつは敵だ。帝国主義はんたーい。」


(品格のある文章を提案したあとで品格のない文章が続く事を深くお詫びします)

 この両者ともに容易に原理主義化する要素をはらんでおり、どんなに正しい思想であろうとも、この帝国主義的、あるいは民族主義的言説にかかると、もとの思想は簡単に汚染されてしまう。

 ここで本題。

 初期仏教のお釈迦様のお言葉は確かにすばらしい。老若男女、国境を越えて、多くの人々に受け入れられてきた。しかし、これをもってアカルチュレーション(文化融合)の結果、各地域に誕生した宗派仏教をすべて批判したらば、どうなるか。何も残らんがな。草木も生えんがな。

 一方、「オレはこーしてきた」という民族主義的な主張も、これだけ世の中が多様となってくると世の流れに取り残されて"チーン"ということになりかねない。日本仏教がいかにがんばろうとも、グローバリズムの進む中での地域の空洞化はとまらないし、葬儀の自由化は進み、さらにお墓を持たなくてもいいという人が増え続けている。こうなれば行き着く先は、ジリ貧しかない(ごめんさいねえ、ずけずけいって)。

 というわけで、これからの仏青は仏教思想の普遍的な部分を大事にしつつ、しかして今の日本人の受け入れられる範囲内にも目配りするしかないわけ。民族中心主義にも帝国主義にも陥ることなく、中道の道を歩む他ないわけ。

 幸いにして仏の教えは思い切り普遍的。「すべての問題はわれわれの外部にでなく、内側にある。」この思想に一人でも多くの人を目覚めさせることができれば、多くの病んだ魂は救われ、犯罪は減少し、人々は思いやりにみち、知的にレベルアップすることでありましょう。

 人を責めるより前に、まず自らの行いを正し、美しい言葉を紡いでいけば、声高に他者を責めずとも、自己を主張せずとも、ミクシーに無間地獄のように書き込みを繰り返さずとも、栴檀の香りに自ずと人が集まるかのごとく、人は集まってくるはずである。たぶん。


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ネット・コミニュケーションの変遷

ホームページを始めてから六年。この間ネット世界でのコミニュケーションの場は、掲示板、スレッド、メーリングリスト、ぶろぐのコメント欄そして、Mixiに移行してきた。

最後のMixiについては、互いを見知った小集団の結束性を高めるには役立つであろうが(それもどれほど強い結束かはあやしい)、他者に開かれていないため、ネットの利点をほとんどいかせないものとなっている。掲示板の時もそのような人はいたがMIxiに、はまった人はいくつものコミニュティに参加して、明らかに一日中をレスをつけつづけている人がいるらしい。その大半の内容はかりそめの一体感をうるためのチャット(あ~あ)。

今ネットには、更新されなくなったホームページ、掲示板、ML、が山ほどめに目に付く。当然、更新のとまったホームページの掲示板はスパムメールの餌食になっていき、さらにすさんでいく。そしてMLは間遠になり、ホームページは開店休業ときたもんだ。

さあここから本題です。

じつは仏青ではこれまでMixi以外のすべてをやってきたのである。そしていずれもあまり成功しなかった(ごめんねばらして)。なぜだろうか。

コミニュケーションの場合重要なのは「場」ではなく、「内容」だからである。内容があれば、どんな媒体をつかっても人はくる。しかし、内容がない場合はいまどきのツールをいかに用いようともそのようなコミニュティには人はこない。

Mixiでは、少数人間間が、閉鎖された空間で「~はずし」みたいなことをやったり、自分を好きな人(少なくとも自分の悪口を言わない人)に囲まれて、自分語りをしたりして、かりそめの一体感をえている。

 人間は黒いものなのでそのような空間が必要であることを否定しない。何もかも真っ白にしてしまったら息がつけなくなるしね。だから、寂しくなったらMixi使えばいいわけで、普通の人間関係なら、Mixiつかわなくとも普通にメールのBccでまにあうと思う。

仏青が何をはじめるにせよ、まずツールや場ではなく内容を重視して、その内容も大衆に向けて発信する以上品性を備えたものであって欲しいと思う。自分が関わっている社会問題でも、本山修行の内容でも、何かその人にしかできない内容を発信することが人の興味をひくことにつながると思う。

ビートルズがまだリバプールの地方バンドだった頃、彼らの先見性を見ぬいたプロデューサーが、彼らに

きちんとした格好をすること、客席と会話をしないこと

を申しつけて、そのいいつけをまもったビートルズは世界的な成功をおさめた。

「客席と会話をすること」はこの場合、「Mixiの内部で閉鎖的に交されているムダ話」にあたり、これをしないことがよいのであり、

「きちんとした格好」とは、「誰でもがアクセスできる空間に出される品格のある文章」にあたる。

がんばれ、仏青、世界にはばたくのだ。
ビートルズのように!


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