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アブナイ坊主

今から数年前のことである。
茨城県の×◎宗の◎×寺(武士の情けで名は伏す)で法事をした。まず、電話でお寺に法事に申し込みをすると、

「ご本尊様へのお供えは何にしますか」

と聞かれた。こちらは東京にいることでもあり、お寺におまかせしようと

「そちらでは、いつもどのようなものをお供えしていますか?」

とお伺いした。すると、

「トンカツです。◎×■円もだせば立派なトンカツをご本尊様にお供えできますよ。」

一瞬耳を疑ったよ。
「生き物の命をとらない」殺生戒は南伝・北伝をとわずすべての仏教が筆頭にあげる戒めの一つ。厳しい自然環境にあるチベットでは僧侶は伝統的に肉を口にするが(他に栄養源ないし)その場合でも「自分のために殺された肉はだめ」とか規定がある(一応)。むろん、仏壇などの聖處に肉類が備えられることはない。

ここで寺の見識を大いに疑ったが、法要の当日、法要が終わって、我々がお寺の中庭にでて車に乗り込もうとしたところ住職がわれわれを追って外にでてきて、言った台詞がすごいわな。

「あの◎十万円は払ってくださらないと困ります」

とな。

関係者は財布の中を見たが全員の分を合わせてもたりない(それくらい金額がすごい)。

そしたらこの住職

「お寺をでて◎×の方向にいくとキャッシュ・ディスペンサーがありますよ」

「むさぼりの心は仏教のもっとも忌むところであり」とか言う前に、人としてあぶねーよこの住職。
しかし、あぶない人に逆らうとろくな事にならないのも経験から知りえた真理である。われわれは言うとおりキャッシュディスペンサーからお金をおろして、ありがたくお布施させていただきました。

こういう僧侶が日本仏教の、ひいては仏教の評判を悪くする。


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共通テーマ:日記・雑感

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コメント 8

あくびの母です

本日分を拝読させていただいて、こううゆう奴等もとい方々がけっこういるんだなぁと、忘れていた怒りというか、きずを思い出しています。あくび父は、数年前まで、真言密教某寺の大阪別院の経営管理者(この時は僧籍はない)として勤めていました。先代の住職(けっこう立派な人格者でした)と意気投合してのことでした。亡くなられて子息が継いだのであるが、信者からの金で、飲む打つ買う、豪華海外旅行、自分の子供たちにも贅沢三昧、挙句の果てには経営が苦しいと信者から金を搾り取る。ある日何々さんは遺産相続したからだいぶ取れるなどとほざく始末、連日あくび父は僧侶にあるまじき行為と馬鹿息子坊主に説教して怒鳴り飛ばし、抗議するも時すでに遅し、すっかり金を使い果たし、大阪別院を閉めあくび父はあっさりクビ、捨て台詞に「大阪は好きじゃなかった」ですと、日本仏教界の膿はマリアナ海溝よりも深いように思います
by あくびの母です (2006-01-06 01:38) 

ishihama

なんとも壮絶なお話、ありがとうございました。私の親戚にも京都で法衣を収める仕事をしていたものがおりまして、坊主の実態をいやというほど知っていたことから「あいつらのあげるお経では成仏できん、葬式はいらん、骨は高野山へ」と遺言して死んだそうです。何も知らない人は法衣を来ている人イコール聖職者で尊敬するものですが、その法衣にふさわしくない方がたくさんいるということで、って、さらにくらいわ。
by ishihama (2006-01-06 11:41) 

ishid K.

 すべてをチベット仏教を中心に考えるのは、よくないと思います。私はチベット仏教の僧侶でもディスコや賭博での遊びに精を出している僧侶をインドで見ました。曹洞宗でも、まじめに寺院運営をしている僧侶もいます。このような記事を書かれますと、とても悲しく思います。仏典には、肉や魚を食べることが生臭ではなく、行ないに誠意のないことが生臭であると記されています。

(きまぐれで)生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、これが〈なまぐさ〉である。肉食することが〈なまぐさ〉ではない。この世において欲望を制することなく、美味を貪り、邪淫を交え、虚無論をいだき、不正の行ないをし、頑迷な人々、これが〈なまぐさ〉である。肉食することが〈なまぐさ〉ではない。粗暴であり、残酷であり、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、物惜しみするたちで、誰にも分け与えない人々、これが〈なまぐさ〉である。肉食することが〈なまぐさ〉ではない。怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、法螺を吹くこと、極端な高慢、不良の輩と交わること、これが〈なまぐさ〉である。肉食をすることが〈なまぐさ〉ではない。この世で、性格が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も下劣な人々、これが〈なまぐさ〉である。肉食をすることが〈なまぐさ〉ではない。(『スッタ・ニパータ』242-246)

 これからは、僧侶も選ばれる時代になると思います。これまで以上に、仏教の専門家としての自覚をもち、伝統を継承していくことが求められるのでしょう。
by ishid K. (2006-01-06 11:59) 

興瑞

ishid Kさんへ
≫肉や魚を食べることが生臭ではなく、行ないに誠意のないことが生臭であると記されています≫
この坊さんに誠意があるとでも?
「このような記事を書かれますと、とても悲しく思います」と言われますが、実際にこのような体験をされた先生はもっともっと悲しい想いをしたと思いますよ。
by 興瑞 (2006-01-06 18:40) 

ishihama

 わたしはすべての僧侶がそうであると言っているわけではありません。気を悪くしたのならごめんさない。おっしゃる通り誠実に寺院運営していらっしゃる方もいらっしゃるでしょう。問題はそうでない人がいる場合、どうするかというつもりでかいているのですが。
 たとえば、教授、助教授という人の中にもその名にふさわしくないふるまいをする方がいます。しかし、こういう人たちのスキャンダルを「教授、助教授という人たちに対する世間の目が厳しくなるので報道しないでください。かかないでください」といっているうちは、先生方のご乱行は永遠に改まらないでしょう。しかし、「これを問題である」と認識すれば、自ずと身の処し方にも注意するようになるのではないかと思います。
 また、チベットのお坊さんを絶対視してはいません。上座部仏教にだって、チベット仏教にだっていろいろ問題のある僧もいるでしょう。しかし、「あいつらだってこんなことしてるんだから」とみなが現状を肯定していてはこの現状は変わりません。大学教授であれ、僧侶であれ世間からしかるべき尊敬をうけようと思えば、やはりそれなりのふるまいが期待されるのではないでしょうか。その「ふるまいとは何か」を考えることを今提案しているのです。
by ishihama (2006-01-06 22:00) 

野村正次郎

ぼくは日本仏教をだめにしたのは、日本人にほかならないと思っています。

具体的には、石濱先生がキャッシュディスペンサーからお金をおろしてまでお布施をしたところが、問題なわけです。それをやめることから仏教の改革はあると思います。
しかしながら、親戚や家族の手前、そのお寺を選ばざるを得ない、
こういった日本人の因習があり、それを食い物にしている僧侶もいて、
悪循環がなかなか断ち切れないのでしょう。

たとえばチベット仏教では、教えの伝統が続いているのかどうかということを判断するための基準は、戒律が正しく守られてなおかつ、その継承者がいるのかどうかということに基準があります。日本人は法事で僧侶の人にお酒を奨めたり、お寺の跡継ぎがいるといったりして、嫁を紹介したりするのは、よくあることですが、じつはこのちょっとしたことがすべて仏教の衰退に寄与しているのであると思われます。

そして、また僧侶の本来の仕事というのは、仏教を実践し衆生済度のために一刻もはやく仏になることであって、僧院や寺院を運営することではありません。

いまの日本ではオリンピック選手や甲子園に出場する若者がいれば、それを家族や街をあげて応援しますが、仏教を学び実戦しようとする人間をそこまで応援していません。
私はまずその辺から変えていかなくならないと思います。

僧侶というのは、プロスポーツの選手と同じようなものであるべきです。
チベット仏教では、もちろん三流選手もいますが、
まだまだサポーターの力は衰えていません。
そこが日本とは違うところですね。

仏教青年会の若者諸君は理想に燃えている志士であるべきで、
ぼくらが抱えているこういう問題を変えるために、
いろいろな提案をしてほしいものですね。
by 野村正次郎 (2006-01-06 23:43) 

ishihama

まあ、でも「こうあるべきだ」といっちゃうと
原理主義的になるから
「こうならないようにしようよ~」
くらいにしないと、未来のお坊さんとなる部員がみなひく。
by ishihama (2006-01-07 11:59) 

ishid K.

 野村先生と石濱先生のコメントを拝読し、うなずかされる部分が幾つかありました。また、野村先生が「僧侶の本来の仕事というのは、仏教を実践し衆生済度のために一刻もはやく仏になることであって、僧院や寺院を運営することではありません」と仰せのように、理想としては、寺院の運営と僧侶の実践行(菩薩行)を分離して、僧侶が運営に関わる業務から開放され、自由に活動できるようになるといいと思います。私も微力ながら、仏教を身近に感じていただけるように布教をしていきたいと思います。

>まあ、でも「こうあるべきだ」といっちゃうと
>原理主義的になるから
>「こうならないようにしようよ~」

  この石濱先生のコメントのように、「こうならないようにしよう」ということから真摯に向き合って、解決していく姿勢を忘れずに精進したいと思います。
by ishid K. (2006-01-08 11:57) 

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