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氷雨降るなか初詣

 無精な私は仕事以外では、目的が二つ以上ないうちは外出しないことにしている。それは初詣においても例外ではなく、本日は初詣がてら河口慧海の遺骨調査をかねて、さらに授業でつかう資料写真の蒐集をかねて、上野の諸寺をまわる。まず、新宿紀伊國屋書店五階で『評伝河口慧海』をかって待ち合わせの日暮里に向かう(この日にあわせてアマゾンに頼んだが今日にまにあわなかったためオンラインで調べた)。おともは文学部でのわたくしのチベット仏教の授業をとってくれたケンタローくんとマミコちゃんである。

 うどんを食べながら、ブリーフィングを行い、天王寺(1901年日本ではじめてチベットに入った河口慧海の遺骨があるとの噂あり)→寛永寺→東照宮→根津永宮町(河口慧海雪山精舎あと)と回ることをこくちする。とエラソーにかいたが、下調べはここにくるまでの山手線の車内で泥縄式に行い、資料は前述の本にくわえ堺市博物館で行われた河口慧海展のカタログ、ネットでおとしたこの地域の地図と『散歩の達人』の谷中の七福神特集ときては、研究者としてはかなり終わった準備状況である。

 まず日暮里駅前の天王寺を訪れる。2003年にでた『評伝河口慧海』によると慧海の遺骨は谷中天王寺に収めたという。しかし、1993年の堺市博物館のカタログによると谷中天王寺から改葬されて青山墓地にあるというので、どちらが本当なのかを確認するのが目的である。

 名刺ももたず、いきなり参拝者の窓口に現れた私に対して、執事の山口さんは『国史大辞典』や天王寺の過去帳を調べてくれ、じつにありがたかった。聞けば山口さんは早稲田の一文を卒業しているということで、私の先輩である。また、同じ仏教徒であることが、このような暖かい交流を生んだものと思われる。仏教青年会へと勧誘しようかとも思ったが、あまりおしつけがましく行動するのもどうかと思い、とりあえずやめておく。

 過去帳における河口慧海の記載は、没年と名前のみで、死因も住所も喪主も書いてない。山口さんによるとこれは、これは檀家ではないからで、でも記載があるのは、当時のご住職福田師がお葬式に呼ばれたからではないかという。しかし、埋葬地に青山墓地とかいてあり、また、彼の知る限り天王寺の墓地に慧海の墓はないというので、「おそらくは遺骨はここにはないだろう」という結論にいたる。

 山口師にお礼を申し上げて、寛永寺と東照宮に向かう。この二つは江戸城の鬼門を封じるために天海大僧正がたてた由緒あるもので、かつては上野の山全体がこの寺の境内であった。幕府の崩壊と上野戦争によって今のようなショボイ状態になってしまったのである。現在の仏教界が置かれた暗い状況を示すかのように、先ほどまではぽつぽつと降っていた雨は谷中の墓地を歩く間につよい氷雨にかわっていった。今年もイシハマは雨女として絶好調である。

 寛永寺、東照宮を訪れる目的は、その内陣に鎮座する御厨子にある転輪聖王を象徴する八幅輪の彫刻を写真に収めることにある。そう、授業を受けた方は何の資料かわかりますね。そしてあまりの寒さに途中善光寺坂のコーヒー屋にピットインしつつも、根津のはん亭の向かいにあつたという河口慧海の寓居あとにいく。今は河口師をしのぶものは何もない。ケンタロー君が「碑文も何もないですね」というので、「碑文をたてるためには、その意義をといて、募金を集めて教育委員会とかに働きかけたりすれば可能だから、誰かやらない?」と誘ってみる。そして東照宮でひいたおみくじはビリから二番目の末吉(大凶は入ってないことを巫女さんに確認した)。

 今年もろくな事はありませんな。


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